いつもゼネラルマネージャーとして私の活動を共にしている本田健治の母校、岡山県立津山工業高校が27日に全国大会に出場することになり、急きょ花園ラグビー場に応援に行ってきました。
本田は津山工が初めて花園に行った時のキャプテンで、その時のいろんなエピソードはとても面白く、私の周りではよく知られています。私はこの1年、頭の中が仕事のこと一色で過ごしましたから、全く関係がないラグビー観戦に行けるということが、ことのほか嬉しく、ワクワクしました。これまでラグビーは観ても全然わからなかったのですが、先日のラグビーワールドカップでの日本の活躍を観て、トライと、ゴールキックがあることだけはわかるようになりました。津山工の試合は12時からなので、朝6時に出発して、11時頃にラグビー場に到着しました。地元からはバスで応援団が来ていて、本田の同級生の方達といっしょに観戦しました。
津山工は一時期ずっと全国大会に出られない時期を過ごして、昨年からまた出場を果たしています。試合は残念ながら新潟工業高校に72対7で敗れてしまいました。0点で負けるかもしれない状況でしたが、ワントライとゴールキックで7点取ることが出来てホッとしました。試合後は本田のラグビー仲間の加納さんと、同級生の勝山さん(葡萄農園をされています)と、前校長先生と後輩のラグビーOBおふたりと一緒にお好み焼きを食べに行きました。
ここでちょっと、本田が花園に行った時のエピソードを少し紹介しましょう。本田がラグビー部に憧れて高校に入学したところ、ラグビー部とは名ばかりで、不良(本田の表現)の集まりだったそうです。そこで、2年でキャプテンとなって部員集めから始めて、先生とふたりでラグビー部を立て直し、厳しい練習メニューを作り、3年生で初の花園出場を果たしたというわけです。花園を決める東中国決勝戦、広島工との試合の際には、学校としては予算もなかったために、広島の江田島海上自衛隊基地に体験入隊ということで無料で宿泊したそうです。12時の試合でしたが、自衛隊の規則で昼食は12時なので昼食は取れず、朝7時に朝食を取っただけでした。試合前に監督が菓子パンを買って来てそれを食べて試合に臨みました。それでは足りなかったのでしょう。前半は3対0で負けていて、ハーフタイムの時にみんなが「お腹がすいて力が出ない」と言ったので、本田が「これを勝てば花園だ!頑張ろう」と気合を入れ、みんながその気になって頑張って、後半9点を取り、9対3で勝つことが出来たのだそうです。私はこの話が一番好きです。そして、花園出場となったわけですが、1回戦で優勝候補の秋田工との対戦となり、惜しくも敗退となりました。それ以来、津山工はラグビーの名門校となったそうです。その当時の新聞がありますのでどうぞご覧ください。
ところで、先週の火曜日左手の人差し指を怪我して3針縫いました。抜糸は来年の7日になるのでしばらく包帯を巻いていなければならなくなり何かと不便ですが、幸い皮膚科の良い先生に処置していただくことができたので、綺麗に治るそうです。
今年はなんともいろんな出来事があった年でした。何度目かの転機の年であったと思います。来年はソングセラピストとしての自分を確立したいと思っています。
今年も皆さまのご支援、応援ほんとうにありがとうございました。来年もどうぞよろしくお願いいたします。
12月6日、「枝璃貴子と気のいい仲間たち」のクリスマスコンサート&パーティーが無事終わりました。
20年程前に始めて以来、このところは年2回で続けて来ましたが、今年から12月だけの1回にすることにしました。この会は説明しきれないくらい、細かい準備が必要で、これまで私と本田の2人で進めてきましたが、さすがに2人とも歳をとりました。翌日と翌々日の疲れ方は半端じゃなかったです。これからは、手伝ってくれる若い人をなんとか探すことにしましょう。
コンサートとパーティーのほうは、いつも以上にアットホームな感じの楽しい会になりました。
残念だったことは、もうずっと連続出場だった、琵琶の舩水京子さんが右肩を骨折して不参加になったことです。1月で90歳になられるので心配しましたが、ご家族のお話ではとてもお元気で、今リハビリに入っているそうです。
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受付・原田裕子さん |
ごあいさつ |
ひきがたりアンサンブル |
長谷川英子さん |
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山浦幸雄さん |
中本正勝さん |
稲益秀範さん |
所沢 弘さん |
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山科正広さん |
白土富夫さん |
池上むつみさん |
島田 実さん |
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竹内克好さん |
枝璃貴子ミニライブ |
3人で |
それに、予約していたお客様も何人か、急に来られない事情が出来て欠席になりました。それなので、いつもより人数は少なめになりましたが、その分アットホーム感が増したように思います。
今回感じたことは、門下生の部で、お弟子さんたちがいつもよりすごく緊張していたことでした。やはり、年1回になったことで、場数が減ってしまったことは大きいと思いました。それなので来年の夏に、別の形で門下生の発表会をすることにしようという考えに至りました。これからお弟子さんたちと相談していこうと思っています。逆に、日頃演奏活動をしている仲間の皆さんは年1回になったことで、練習不足ではない余裕のある曲が出来たので、とてもいい演奏になりました。ミニライブの私も余裕のある曲ばかりだったので、いつもよりすごい称賛のお言葉をいただくことが出来ました。
個人的に嬉しかったことは、これまで疎遠になっていた従妹や従妹の子供たちが3人も参加してくれたことです。もう叔父や叔母たちはいなくなっていますから、これからは従妹たちとの交流を深めていきたいと思っています。
ビデオや写真を撮ってくださった三納さんが、今回はやたら「笑顔、笑顔」と言って、笑顔をテーマにしたかったようなので、今日はたくさんの笑顔写真を載せることにしました。
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乾杯 |
GM・本田さん |
写真ビデオ・三納さん |
所沢さん |
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白土さんと森さん |
今井さん |
古賀さん |
支援の会事務局・近藤さん |
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伊藤典雄さん |
五野上さん |
従妹の橘洋子・ゆり子母娘 |
長谷川さん |
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森下さん |
支援の会副代表・中本さん |
伊藤公一さん |
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従妹の娘・裕子とわたし |
親戚と一緒に |
支援の会監事・佐藤さん |
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支援の会代表・山浦さん |
山科さん |
渡辺 白土 長谷川さん |
11月8日は大島でのコンサートでした。昨年同様、ひまわり号の船長、菅原進さんのお世話で、会場も同じです。菅原さんのことは、昨年5月に気仙沼に行った時のWEB日記にいろいろ書いていますが、ひまわり号で津波を乗り越えて、まだ船が運航されていない時に気仙沼と大島を繋いだ有名な方です。昨年行った時は、ご自分の手で家を建て始めた頃でした。今回見せていただきましたが、かなり出来上がっていて、大きな立派なお家でした。大きな玄関に入ると、廊下を挟んでつき当たりにお部屋があり、真正面に見える形で大きな神棚があります。菅原さんは、全壊した家に「絶対に元通りの家に戻すからな」と誓ったそうです。他の物は全部津波で流されたそうですが、神棚と仏壇だけは残ったそうで、残った神棚を全部綺麗に洗って復活させたそうです。仏壇はまだ置いてありませんでした。とにかく、菅原さんはすごい人です!
昨年は30人位のツアーで行きましたが、今年は5月に南相馬にツアーで行きましたので、今回は少人数で、前日の7日にそれぞれ別々に出発しました。バイオリン演歌の牧野英一郎さん(武蔵野中央病院長)と、音響などをお手伝いしてくださった所沢弘さんと、受付などを手伝ってくれた酒田の同窓生の佐藤恵美子さん、自称「追っかけ」の弁護士さんで、黒川厚雄さん、そして私と本田の6人です。気仙沼からフェリーで大島に渡ります。気仙沼では少し時間をとって、紫市場の副会長さんである坂本さんとお会いしました。大島でコンサートをする以前は、坂本さんのお世話で、紫市場でコンサートをしていた経緯があります。気仙沼のボランティアセンターは仮設の集会場では音楽はダメということだったのですが、坂本さんのお話では、別ルートで行けばできるとのことでした。まだ仮設は全然なくなっていないそうなので、是非仮設の集会場でセラピーコンサートをしたいと伝えたら、坂本さんが「わかりました」と答えて下さいました。坂本さんのお店で、「気のいい仲間たち」の景品に使う、おみやげ品をいろいろと購入させていただきました。
大島では、今まで宿泊していた気仙沼ちゃんの宿、「アインスくりこ」は40人位の団体客の先約があり、私たちは「明海荘」に泊まることになりました。それでも、「アインスクくりこ」に挨拶に伺うと、オーナーの白幡さんと気仙沼ちゃんが歓待してくださって、手作りのアイスクリームや葛湯などいろいろご馳走になりました。先約の団体客の皆さんは、被災直後に炊き出しや、布団をたくさん送ってくださった方々だそうです。
明海荘は、若夫婦で経営されていて、やはり復興のためにいろんな活動をされていました。女将の村上かよさんはバイタリティに溢れていて、おぢゃのみ工房「子輝葉(つばき)」を立ち上げ、精力的に活動されています。ロビーで音楽会をしたり、石窯を作って、子どもさんたちでピザを作る会をしたり、ほんとにキラキラお母さんという感じでした。
| Kさんのお話を伺う | Kさんが経営されていた建物 | 震災直後の同じ建物 | 皆さんにご挨拶 |
| セラピーライブ | 歌っている私 | 3人で演奏 | 菅原さんファミリーと |
コンサート当日、真っ先に入場された品の良いご婦人が、貴重なお話をしてくださいました。88歳のKさんというかたで、仮設で暮しておられます。震災でご家族を失くされて、今お独りだそうです。震災前にKさんが経営されていた建物の写真と被災後の写真を見せていただき、いろんなお話を伺いました。すごく物知りで、バイオリン演歌の時に牧野先生がお客様に問いかけると、なんでも詳しく答えるので、牧野先生がちょっと想定外だったような様子で、おふたりのやりとりが面白く、笑えました。
コンサートは、第1部を「セラピーライブ」として、私がいつものような内容で、ソングセラピーをしました。皆さん真剣に聴いてくださっていました。第2部は「お楽しみライブ」にして、今回から「e楽坊」という芸名にされた牧野先生のバイオリン演歌、それから、弾き語りのお弟子さんでもある所沢さんも参加して、3人で「川の流れのように」と「翼をください」を演奏しました。その後、昨年菅原さんに贈った「ひまわりさん」というオリジナル曲と、恒例の「時代を越えて」を皆さんに覚えていただいて、一緒に歌いました。
一昨年に、被災地のことを念頭に置いた選曲で作った12曲入りのCD「枝璃貴子の世界Ⅱ(今、伝えたい思い)」を20枚持って行ったので、最後にお客様全員でじゃんけんをしていただいて、プレゼントをしました。
「ひまわり号」のことが、今年から教科書に載ったのですが、小学校の先生が来られていて、「授業の時に、『ひまわりさん』(私が家で録音したデモCD)をかけています」と、お礼のお言葉をいただきました。「あの歌は小さな子どもさんたちが合唱することをイメージして作った歌なので、是非合唱して下さい」と言いましたら、「校長に話してみます」とおっしゃっていました。
初めて被災地に同行した、黒川さん、佐藤恵美子さんは、「すごい充実感を得ることが出来た」と、とても喜んでいました。
コンサートが終わって後片付けをして、4時20分のフェリーに乗り込み、吉祥寺に着いたのが11時ごろでした。考えてみれば、年齢の割には強硬スケジュールだなと思いました。翌日ものすごく疲れて、何もしたくなかったことは言うまでもありません。
10月25日は、私が8年前から指導に行っている、足立区の竹ノ塚地域学習センター主催の「竹の子文化祭」でした。クラシックギターのサークルや、フラダンスや、太極拳などいろんなサークルが参加しています。
私たち弾き語りサークル「円むすび」も例年どおり出演しました。毎年そうなんですが、フラダンスの大音量の後に、「円むすび」の出番になります。クラシックギターはいろんなギターの中で一番音量が弱い楽器です。フォークギターはスチール弦なので、金属的な鋭い音で、音量があります。それに比べて、クラシックギターは、昔ガットギターと呼ばれていて、羊の腸で作られた弦でしたが、今はナイロン弦になっています。柔らかい音色で繊細な表現力を持っていますが、音量は弱いのです。そういう違いをあまり知っている人が多くないので、いろいろ苦労します。今回は、私を入れて10人でしたが、マイクが全部で6本しかないので、並んでいるメンバーの間にマイクを置きました。問題はマイクの角度を、声の方に向けるか、ギターの方に向けるかです。去年上向きにして声を拾う様にしたところ、ギターが弱かったと言われました。今回はマイクを下向きにしてギターを拾う様にしたところ、声が弱かったと言われました。300人位のホールなので、生声ではよく聴こえないようです。視聴覚室で練習した時には発声練習もしっかりして、すごくいい感じだったのに、そういうことが原因で「大成功!」というわけにいかなかったのは残念なことです。なにより、せっかく一生懸命練習に励んできて、その成果を発揮したメンバーたちが可哀そうです。お客様の耳が慣れて対応できるように、ギター関係などの音量が弱いグループと、大音量の踊りやカラオケなどのグループとに分けたプログラムにしていただくとか、マイクの本数を増やすなどの工夫をしていただけると大分違ってくるのではないかと思います。今年からセンターの経営陣が新しくなりましたので、是非新しい試みをしていただけることを期待したいと思います。
話はさかのぼりますが、10月10日、ヨーガで親しくしている人たちが、武蔵野市民音楽祭に合唱で出演するというので、自転車で行ってみました。武蔵野市民会館は親子劇場の東京公演の時に使ったことがありますが、小ホールでも500人位は入ります。とても響きがよく、合唱の歌声が心地よく響きわたって、どのグループも上手に聴こえました。4人でジャズを歌ったグループもありましたが、それでもマイクなしで、合唱団に引けを取ることはありませんでした。素晴らしいホールだなと、あらためて驚きました。先日ヨーガで合唱に出演した人たちと一緒になりました。練習の時は、先生がどうなることかと思ったほどよくなかったそうですが、本番が一番良く出来て、先生に褒められたそうです。響きがいいと気分よく歌えるものなので、思った以上の出来になったようです。こんなふうに比較するようなことを書くと、私が武蔵野市民だから肩をもっているように誤解されるかもしれません。
そうではなく、8年も指導に通っているサークルを大事に思っているから、私自身が悔しい気分なんです。なんとかよりよい方向にもっていけたらと思っているだけで、決して批判的な考えではありません。
私は酒田で7回、東京では8回、全部で15回の引っ越しをしているので、地元愛というものがありません。昨年ようやく酒田は故郷という実感を持つことが出来たくらいです。3年前大病をして、仕事を減らすことになった時、武蔵野高齢者センターのギター講座は30人位の受講者がいたにもかかわらず、迷いもなくそれを辞めて、遠くて人数も少ない、竹ノ塚のサークルの方を残しました。それは武蔵野市の方はギターだけの講座で、竹ノ塚は弾き語りサークルであることが大きいのです。クラシックギターの弾き語りは珍しくて、そんなに知られていません。そのうえ、グルーブ演奏となると日本では他にないと思っています。以前は世界的にもないと思っていたら、何年か前に、テレビで北朝鮮の小さな子どもたちが4、5人で、ちっちゃいクラシックギターを弾きながら、本格的に歌っているのを見てしまい、「やられた !!!」とガッカリしてしまいました。でも、日本ではまだ、見たことも聞いたこともないので、なんとしても続けていきたいと思っています。
よく相撲の世界で「心技体」という言葉が使われますが、それは他のスポーツや演劇など、音楽の世界でも当てはまると思います。音楽が?と思われるかもしれませんが、コンサートをするということは、アスリートが試合に出場するのとすごく似ています。半年前の試合で優勝したから、今度の試合は練習しなくても楽勝、というわけにはいかないことは誰もがわかることです。コンサートは闘いではないと思われるかもしれませんが、いつも自分との闘いです。お客様は、失敗コンサートなど全く想定しないで、楽しみに来られますから、必ず成功をしなければならない立場にあります。つまり、いつも勝たなければならないのです。
「技」は、怪我でもしない限り、これまで積み上げてきたものがありますから、今ここで聴かせて下さいと言われればいつでもできます。でも、コンサート会場に集まったお客様の心に思いが届くように、そして皆さんが感動を持って帰ることが出来るようにするには、全く別次元の練習を積み上げなければなりません。「技」だけでない「心」が一番大事になってきます。それなら一生懸命心を込めればいいかというと、「技」が伴わなければうまくいきません。コンサートで「心技」を一体化するには、そのコンサートの内容に沿った完成形のイメージを持って、当日最高の力を出せるように練習するしかないのです。けれども、アスリートと大分違うのは「体」の比重です。もちろん、演奏家でも体調が整っていることは大事です。でもアスリートの場合はその比ではありませんよね。故障を抱えながらも頑張っていきますが、それでも著しく衰えたならば勝つことができなくなって、長くても40歳代ぐらいで現役を引退ということになります。その点、芸術関係は80歳代でもたくさん活躍されています。「体」が衰えてもなんとか凌いで、「心技」に磨きをかけることができるからでしょう。
でも、それはそれで大変です。先日NHKの「SONGS」で矢沢永吉さんの特集を見ました。いろいろ語っておられましたが、同感することだらけで、「世界の矢沢」でも私が感じている苦しみを共有しているんだなと思うと、勇気をいただくことが出来ました。あの激しいマイクを蹴りあげるパフォーマンスなどで、20代の時から背中、腰を痛めていたということを初めて公表していました。66歳の今、激しい痛みで、痛み止めなしにはコンサートが出来ないそうです。コンサートは今でも毎回「怖い、ドキドキする、オオマイガット」で、楽屋でバクバクしているそうです。いつも最高を目指して、リハーサルはすごい時間をかけていました。こんな私でも、いつも今の私にできる最高を目指さないと気が済まないので、それだけに怖いのです。パーフェクトで出来る保証なんてどこにもないし、誰も助けられる人はいません。スポーツと同じく、そういう恐怖に打ち勝つのは練習しかないと、私も思っています。
矢沢永吉さんは言っていました。「でも辞めたらおれに何が残るの?」声が出る限り、足腰が動く限り続けるそうです。そういうドキドキ感をいつまでも持ち続けられることがラッキーなことであるという結論でした。以前、アーティストは身体の不調は言わないのが普通でしたが、最近ぞくぞく公表し始めています。むしろ、それでも頑張っている姿を見ていただくことが、他の方々の励みになるかもしれない、という考え方になってきているようです。かく言う私もいろいろあります。手は20代の頃、クラシックギターの過酷な練習をして腱鞘炎になり、ギターを弾いている限り治りません。それに、小学生の頃からギターを弾くために左足を足台に上げていたせいで左の股関節が変形してしまい、年齢と共に痛みが出てきています。手術しなくても済むように、痛みを軽減するように、いろいろな努力が欠かせません。
私たち世代のアーティストたちがいろんな身体の不調を抱えながらコンサートを続けている話はたくさん見聞きしました。やはり私も、矢沢永吉さんの「たったひとつドキドキするものがあれば人生は楽しい!」という考え方を見習って、出来るかぎり続けていこうと思います。
2夜連続でノーベル賞受賞のニュースが駆け巡りました。暗いニュースが多かっただけに、大変喜ばしい出来事でした。ノーベル医学・生理学賞の大村智名誉教授(写真左)は人間的にも素晴らしい方のようで、いろんなエピソードなどが報道されましたが、そのなかでも印象に残ったのは、お父上からの教えで「子供の頃から、なにかを決める時には人の役に立つ方を選んできた」とおっしゃっていたことでした。
物理学賞を受賞された梶田隆章教授(写真右)は、宇宙の謎を解明するために、すぐには役立つものではない「純粋科学」というものに取り組んで来られたのだそうです。おふたりともご自分の利益のことなど考えておられず、未来を担う若者達に引き継いでいきたいというご様子がとても素敵だと思いました。また、山中伸弥教授もまだまだ研究のための資金、とりわけスタッフに対する報酬も少ないということもあって、東京マラソンに出場されて資金集めをされたことも記憶に新しいですね。
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私が20年位前に、まだ音楽活動には商業ベースと純粋活動のようなものに分かれているということを知らなかった頃、商業ベースに足を少し入れかかったときに味わった、いろんな屈辱や欺瞞を忘れてはいません。人間を商品として品定めをすることが当たり前の世界でした。しかもその品定めの仕方はとても偏っているものだったと思います。入りかかった足を抜いて、純粋活動に切り替えたのは私にとって本当によかったことだと思っています。活動を進めているうちに自分の考えも視野が広がり深まってきて、それに対して理解をして下さる方達がだんだん増えてきて、現在は支援して下さる方々のおかげで、いろんな活動ができるようになっています。なにより、いつも透明な心でいられます。
とりわけ、自分の利益が目的ではなく、人の役に立つという目的を選ぶことができたことは、なにより幸せなことであると思っています。経済的に苦しくなりがちなのが玉にきずですが、ノーベル賞の先生方でもそのようですから、仕方がないです。昔ある本で読んだのですが、人間にしかない高級な脳があって、それを満足させられるのは、芸術とボランティアのふたつなのだそうです。芸術は納得できますが、ボランティア?と思うかもしれません。それは、人の役に立てるという喜びは、自分自身の存在価値を認識することができるからではないでしょうか。私自身、生きる力になっています。
それなので、私も、いろいろ支援をしていただく立場にあるわけですが、あまり遠慮しすぎたりしないで、しかもすぐ物でお返しをするということもしないで、支援して下さった方の思いを尊重して、有難く受け止めさせていただいています。感謝を忘れずに、支援してくださる思いに応える努力をすることが一番大事なことだと思って、日々私がやるべきことに励んでいます。とはいえ、気が付かずに不義理なことになっていることも多々あるかもしれません。あまりにも天然ボケすぎるでしょうか?
今年は南相馬のコンサートに、ツアーを組んで大勢で行って、私も全精力を注いで取り組んだので大変でした。それに、今年度の支援の会の資金も残り少なくなっていますので、気仙沼(大島)の方は行けないかな、と思っていました。ところが、昨年大島のコンサートでお世話になった、ひまわり号船長の菅原さんの奥さまたちが、今年も来てくれるかどうか、とおっしゃっていると伺ったので、急きょ行くことに決めました。今回ツアーは無理なので、去年評判が良かったバイオリン演歌の牧野先生にゲストとなっていただいて、11月7,8日に少人数で行ってきます(当日のチラシはこちらです)。
近年、地球温暖化による異常気象が続々と起きていますね。日本でも今月、鬼怒川水害が起きてしまいました。
9月5日NHKで「巨大災害」という番組がありました。私は再放送で見たのですが、地球温暖化によって、いつ大災害が起きてもおかしくないという内容でした。川が決壊した時のイメージ画像が出たのですが、まるで鬼怒川水害の光景とそっくりだったので驚きました。その番組が放映された数日後に現実となったわけです。どうしてそこまで研究が進んでいるのに、それが日常の対策に結び付けられていないのか、残念でたまりません。
環境破壊への警告は石川啄木がすでに発していたのでした。昨年冨田祐一さんとふたりで「石川啄木を歌う、詠う。」という公演をしましたが、準備段階でいろんな資料の中に見つけました。「啄木鳥(きつつき)」という詩のなかで、美しい自然が汚染されていくことを、全身の力で木をつついて音をたてている、きつつき鳥になったように、人間に警告を発していました。その時、ペンネームを「啄木」としたのです。17歳のときでした。そして21歳のときには猿に化身して、次のような文を書いています。
「なにかというとお前たち人間は、山を削り、川を埋めて、木を切り倒してお前たちの好む平坦な道を作るが、それは美しい天に通じる道ではなく、恐ろしい地獄の門に通じる道であるかを知らぬか。自然の緑を壊し、愛のある世界を汚染する人間の最悪の思想、それだ!」人間は怒り、銃を持ってきて撃とうと後ろをふり向いたとたん、猿は樹上から木の実を数発、人間の頭にぶっつけて、さっと逃げ去ってしまった。
これらを読んだ時、ますます私は啄木に対する敬愛を深めることが出来ました。
もう8年前になりますが、西東京市で毎年コンサートをしていた頃、都市開発に伴って東大農場がなくなるということになりました。東大農場は広大な土地の中に田んぼや畑などがあり、鳥や動物などもいる、自然を凝縮させたような農場です。それに対する住民の反対運動が起きているということで、そんな方達の応援歌になるような歌を作ったらと言われて作ったのが「いのち〜未来のために」(YouTubeにあります)という歌です。この歌は未来に生きる子供たちに歌ってもらいたいという思いが叶い、西東京市の学童の子供たちに歌ってもらえることになりました。普通の小学校低学年の子供達です。1ヶ月程週1回教えに行きました。なかなかやんちゃな子供たちで、ちゃんと椅子に座って歌うのは女の子たちだけで、あとは遊びまわっている状態でした。先生方はハラハラして、「やっぱり、うちの子たちは無理だわ!」と嘆いていました。私としては、なにも動じずいつもニコニコ顔で通しました。最後の練習日だけは、並び方、お辞儀の練習などをすることによって、本番の緊張感を意識させるようにしました。
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そして迎えたコンサートの本番は最高の出来栄えとなりました。やはり子供たちって素晴らしいです。終わってから、ちょっと悪ぶっていた子たちが「もう来てくれないの?」と聞いたりなんかして。
その日のコンサートは反対運動の代表者の方にもステージに上がっていただいて、インタビューをしたり、署名を呼び掛けたりということもしました。
それから間もなく、東大農場存続の知らせが入りました。そのコンサートをしたからというわけではありませんが、とても嬉しい出来事でした。
そんなわけでしばらくしてから、歌ってくれた子供達と一緒に東大農場に遊びに行きました。いちばん憎まれ口を言っていた男の子に「久しぶりだね」というと、「久しぶりすぎだよ」と言われてしまいました。
9月6日は酒田で2回目のコンサートでした。昨年と同じく酒田総合文化センターで、時間や料金など全く前回と同じ設定です。ただ違うのは、昨年は同級生たちが酒田の同窓会の当番幹事にあたり、私はそのゲストという立場で出席をしました。
その関係の延長線上に翌日のコンサートの計画があり、同級生たちが並々ならぬ努力でコンサートを開いてくれたという経緯があります。でも今年は私が主体になってコンサートをすることになるので、酒田のお客様をどれだけ集められるのかという不安でいっぱいでした。それについては7月31日のWEB日記の「ありがたきこと」に詳しく書いてありますが、思いがけなく今年もまた同級生たちが昨年同様に協力してくれたのです。
そこで問題だったのは、「市民音楽祭」と同じ日になってしまったことでした。200人編成の合唱を上演するとのことで、その中には私とご縁が出来た方たちも含まれていました。関係者の方達は当然そちらに行かれるわけですから、チケットを売る側としては大変だったと思います。去年は200人位のお客様に来ていただきましたが、今年は150人位までいければいいんだけど、という感じになりました。
| 9月4日「コミュニティしんぶん」 |
ところが、主体的に動いてくれていたM子さんが働きかけたコミュ二ティ新聞のほうから、私に直接取材のお電話をいただいていたのですが、9月4日にその記事が載りました。各家庭に広く配られている新聞です。私が出発する前日のことでした。記事を見たという電話が2件かかってきました。1件は高校時代父にギターを習っていたという西校の後輩からです。
もう1件は驚きました。小学生の頃に父の交友関係であった有名なピアノのT先生の奥様からでした。2年下のKちゃんという女の子がいましたから最初どちらかわかりませんでしたが、86歳になられた奥様からでした。Kちゃんは今ピアノの先生で、市民音楽祭の方に出演するとのことでした。当時は有名なバイオリンのI先生もおられて、父と3人で家族ぐるみのお付き合いをしていました。お互いの家に家族で行って、食事をしたり合奏などをしたりしていました。私の両親が亡くなったことを聞いて驚いていました。T先生も10年位前にお亡くなりになったそうです。I先生は大阪フィルに入られたので、現在の消息は知りません。
| 9月7日「山形新聞」 |
「楽しかったね」としみじみと言われて、私も思わず「そうですね」と言っていました。話が横道にそれましたが、その記事が載ったおかげで、チケットを預かっていただいていたプレイガイドやお店などで、たくさんの方が買って下さって、当日は220人の入場数となりました。大変感動していただくことができて、終わってからお見送りに出ると、皆さんが握手をして帰って行かれました。アンケートも昨年同様100枚近くあって、また来年も、と書いて下さっていました。そして山形新聞の方が取材に来られたそうで、本田がいろいろお話した内容を翌日の新聞記事にしてくださいました。
終了後、同級生たちとスタッフで打ち上げをしました。長いMC(曲の合間の話)をたくさん入れたのですが、「よくあんなに上手く話せたね」と言われたので、これまですごい努力をしたという話をしました。なにしろ高校時代はすごく無口でしたから。それに身体も細かったので、すべてがガラス細工のようなイメージだったと言われました。「今はこんなに強そうになって」と、大変誉めていただきました。
今回は2回目ということで、酒田の皆さんとの交流も深まった感じで、とても楽しく過ごすことが出来ました。
いろいろお世話になりました皆さま、ほんとにありがとうございました。
9月6日の酒田のコンサートが近づいてきました。曲の合間に話すMCを考えていたら、子供の頃の風景がいろいろ浮かんできました。コンサートをする文化センターが、私がかよった琢成小学校の跡地にできたホールだったことに昨年驚きました。私の家は徒歩10分位のところにあって、まっすぐ歩いていけば学校、という感じでした。十字路の角に、楽器店と住まいが一緒になった私の家があって、道路を挟んだお隣は大きな武家屋敷です。公園に銅像が立っているA様の御屋敷でした。そこには私よりひとつ年下のK子ちゃんという女の子がいて、私はいつも遊びに行っていました。
| 思い出の酒田(現在のGoogleの地図に重ねています) |
K子ちゃんには小さい弟がいたので、時々は私の弟も行って遊ぶこともありました。大きなお屋敷には立派な日本庭園があって、奥に進んでいくと明るい広場もありました。庭園と広場をつなぐ通り道に大きな紫陽花が咲いていました。ちょうど子供の目の高さに花があるので、いつも立ち止まって見とれていました。ピンクがかった薄紫、青みがかった薄紫、その微妙な色合いが不思議で、なんて綺麗な花だろうと心が奪われました。オリジナル曲の「あじさい」はその紫陽花のイメージです。そして裏庭も別にあって、そこにはチュウリップや矢車草がたくさん咲き乱れていました。お家の中にはブランコがあって、お部屋は10何部屋もあると言っていました。ひな祭りの時にはすごい立派な大きなお雛さまの前で、当時はめずらしい手作りプリンというものをごちそうになりました。
K子ちゃんは色白で気品のある可愛い顔をしていましたが、少し神経質そうな表情をしていて、笑顔が思い出せません。手入れの生き届いた庭園ですから、ああしてはいけない、こうしてはいけないといろいろ言われているらしく、私と弟が他の子供たちを連れていくと、何か良くないことをされないかと気が気ではない様子で、遊ぶどころではないようでした。基本的に近所の子で、遊んでいいと歓迎されていたのは私の家だけだったような気がします。K子ちゃんのほうが他の家に遊びに行くということはなく、1度だけ私の家に来た時、何の声も発しないで家の中に入ってきました。きっと慣れていなかったんでしょう。
| わたしの生家「富樫楽器店」の前で 両親と弟と音楽の先生と一緒に (左側にあるお店の入り口は写っていません) |
私が小学3年生の時に父が事業に失敗してお店と家を失くし、私たちは他の町に引っ越しをしました。K子ちゃんとはこれ以後会う機会がありませんでした。やがてお屋敷はデパートに変わりました。大人になってから母に「K子ちゃん、どうしているんだろうね?」と聞いたら、母がK子ちゃんのお母さんに偶然出会ったときに、K子ちゃんが自殺をしたと聞いたそうです。いつなのか、詳しいことは全然わかりませんがショックでした。あのままずっと友達でいたならと残念でたまりません。
酒田は大火(昭和51年10月29日)のあと、すっかり様変わりをしてしまいましたが、その街に住んでいた頃はとても賑やかでコンパクトになんでもあって便利に暮らせる街でした。出来るならまたあの街に住みたいです。クリスマスには街に「ジングルベル」や「101匹ワンちゃん」などの音楽がくり返し流れて、港祭りには花火大会、お祭りにはデパートや、大きな商店などが競い合って作った立派な山車のパレードがありました。古典的な山車ではなく、白雪姫とかが乗っていたりする楽しいものでした。そんな時は市民がみんなうきうきしているような賑わいがありました。
毎年終戦記念日が近づくと、テレビで戦争のドキュメンタリー番組やドラマが放映されますね。
今年は戦後70年ということに加えて、今の政局が戦争に向かうのではないかという不安が国民の間にひろがっていることもあり、例年よりすごい力が入っていると思います。
私は以前の日記にも書いていますが、特攻隊だった俳優の江見俊太郎さんの「語り継ぐ会」の朗読劇で音楽を担当しましたから、普通よりは少し戦争の悲惨さを知っているつもりでいました。ところが先日NHKの番組で、「護郷隊(ごきょうたい)」という少年ゲリラ隊が存在していたことを初めて知りました。今まで口をつぐんできた方達がここにきて続々と語り始めていますね。終戦近くなって沖縄で結成された部隊で、それまで17歳以上が兵役の対象であったのを、沖縄と一部の地域で14歳以上に引き下げられたそうです。数えの14歳ですから、今でいえば12歳13歳です。たくさんの少年兵の顔写真が一面に映し出されましたが、まるで小学生のような顔ばかりでした。「一人十殺(いちにんじゅっさつ)」と何回も唱えさせられて、1人が10人のアメリカ兵を殺すようにと前線に駆り出されたのでした。こんなことを知っていた人はどれくらいいたのでしょうか?
それから、TBSで2夜にわたって放映された「レッドクロス〜女たちの赤紙」は松嶋菜々子さん主演で、日本赤十字から派遣された従軍看護婦の物語でした。フィクションですから、ひとつのドラマにたくさんの戦争の状況や歴史的事件が盛り込まれていて、理想に燃えていった看護師たちの現実の悲惨さもあらためて知りました。NHKのドキュメンタリー番組で従軍看護婦だった方達の証言も見ましたが、事実に基づいているように思いました。戦争をした国はみんな多かれ少なかれひどいことをしたことは事実ですね。世界から戦争のない世の中になるように、日本は率先して頑張ってほしいと思います。
広島では蓮の花が火傷の痛みを和らげるということで、原爆のあとにたくさん植えられたそうです。蓮の花は泥水の中で美しく咲く花ですよね。そのうえ人々を癒す事ができるなんて素晴らしいです。
私が初めてリリースしたオリジナル4曲入りCDのタイトルは「ヴェロニカの自画像」です。これはたくさんの有名歌手に携わったプロデューサーがつけてくれました。彼は私に「細い一本道を行くのが向いているかもしれないな。たとえば教会なんかで」と言っていました。ヴェロニカとは、十字架を背負って歩いているキリストにハンカチを差し出した乙女の名前です。キリストの血をぬぐったハンカチで人々の病を治すようになった聖ヴェロニカのことでした。その頃は自分自身のことがよくわかっていなかったので、ぴんときませんでしたが、なんだか私が今、パーソナルソングセラピストになろうとしていることを暗示していたような気もしています。
このところ、予想を上回った嬉しい出来事がふたつありました。
ひとつは前々回のWEB日記に南相馬の署名のことを書きましたが、予想以上の署名が集まったことです。個人情報保護法が出来てから、そう簡単には住所名前を書かなくなってきている昨今、ちょっと難しいかもしれないと予想していました。それでも、少しは抵抗感を示された方もおられましたが、ほとんどの方たちがとても快く署名してくださって、こちらが頼まなくても即座にご家族の名前まで書いていただきました。やはり、復興に対する国の在り方に憤っている人が多いということを感じました。
藤島さん(仮設自治会長・世話人)に期限を聞きましたら、一旦7月で集計されるとのことでしたので、とりあえず今日(29日)まで集まった分を郵送しました。300人近くの署名があります。支援の会の事務局長をしてくださっている近藤さんも、たくさん集めてくださいました。近藤さんはすごく優しく且つ行動的な方なので、人望も半端じゃないとあらためて思いました。1ヶ月間しかなかったので、お願いできなかった方達もまだおられるし、9月には酒田のコンサートもありますから、最終的な締め切りの11月まで、引き続き集めていきたいと思っています。
もうひとつの「ありがたきこと」は9月6日の酒田のコンサートに向けてのことです。昨年のWEB日記に酒田のコンサートのことは詳しく書きましたが、昨年は何十年ぶりの酒田で、浦島タロ子状態だったのですが、懐かしい人たちがたくさん来てくれました。同級生たちが昨年の同窓会の当番幹事にあたり、私がゲストとして呼ばれ、その流れで同級生たちが翌日コンサートを開催してくれたという経緯があります。コンサートはとても皆さんに喜んでいただくことが出来て、また来年もと多くの方達に言っていただきました。それでも去年は同級生たちが同窓会の幹事だったから頑張って動いてくれたのであって、今年はそういうわけにはいきません。迷っていましたが、同級生が上京した時に相談したらとても喜んでくれたので今年もやることに決めました。
それでまずチケットを買っていただく方法として、去年の関係者たちと、100人近いアンケートに書かれていたお名前・住所、芳名帳に書いてあったお名前・住所の名簿作りから始めました。私との関係性もわかる限り書き込みました。そしてコンサートの案内を発送しました。チケットの購入先は基本的に私のところですが、酒田にも拠点があった方がいいと思い、昨年会計から全般的に担当してくれたMさんに電話をしてみたら、快く引き受けてくれました。ポスター、チラシ、チケットをどっさり送りました。それからの彼女の行動は目を見張るものがありました。昨年の実行委員に声をかけて、みんなが昨年同様協力してくれることになったのです。ポスター、チラシも早速ホールやプレイガイドなどに
持ちこんでくれていました。少し協力をお願いしようという気持ちでいた私の予想をはるかに上回る協力を得ることができました。ほんとに有難い気持ちでいっぱいです。
Mさんとは女学校時代身長が同じだったので、いつも隣の席でした。私たちは大きな地震を経験しています。お昼休みが終わって「起立、礼、着席」で座ったときに、なんだか少し揺れている気がしてみんなの顔を見渡したら、まだみんな気づいていませんでしたがOさんと目が合いました。その直後ゴ―ッという音がして、すぐに縦に激しくガタガタ揺れ始めました。副担任だった若いY先生が窓からグラウンドを見下ろして、「グラウンドに逃げろ!」と言いました。みんなキャーッと叫んで立ち上がり走って廊下に出ていきます。ところが隣に座っているMさんが立ち上がりません。てっきり腰を抜かしたのかと思い、困ったことになったと思っていたら急にガバッと立ち上がって、にわかに私の手を取って走り出しました。その走るのが速いこと速いこと!低学年の私たちは木造の旧校舎にいたので、階段は壁が崩れてきて粉じんが舞っていました。彼女の速さに合わせないと階段から転げ落ちるので必死で駆けおりました。グラウンドに全校生徒が整列して見たのは、校舎が波打っている光景でした。
そんなことを思い出しながら、この年代になって同級生たちと再会できたことの喜びをしみじみと感じている今日この頃です。
先日ある方から「舞音楽事務所の『舞』ってなんですか?」と聞かれました。「舞」とは8歳で亡くなった娘の名前です。考えてみれば、今私の周りにいる人たちのほとんどが舞を知らない人たちになりました。この辺で勇気を出して少し書いてみようかな?という気になりました。今日7月13日はちょうどお盆で、昨日お墓参りに行ってきたところです。
20代の頃、クラシックギターと声楽を学んだことを生かして、スペイン歌曲の弾き語りを目指していました。世界的にもそういう人はいないからと、ギターの先生から薦められました。それで声楽の先生について声楽を勉強していましたが、いつまで経ってもイタリア歌曲ばかりでスペイン歌曲までいきません。今思えばスペイン歌曲専門の先生につくべきでした。挫折感から心身ともに不調になってしまい、その治療の最中に生まれてきたのが舞です。それまで人に頼って生きてきた私が、一人の人間を育てることが出来るのかという不安も感じました。ところが舞は生まれたときから、このように育てればいいと教えてくれるような感じで、導かれるような感覚で育てることが出来ました。私はよく、浮世離れしていると言われますが、それは世間知らずというマイナス面で言われているような気がします。舞の場合はまさに浮世離れしていた8年間だったと、今になって思います。
私は細くてひ弱な感じの子供でしたが、舞は逆のタイプで小麦色の肌をした元気そうな、花で言えば小ぶりのひまわりのようだったと私は思っています。気はやさしくて力もちで、自分よりも小さな子や弱い立場の子に対してすごく優しい子でした。公園で遊んでいるときでも、小さい子のお母さんたちから「舞ちゃんと一緒なら安心」と言われていました。学校に上がってからも、家に連れてくる子供は、母子家庭の身体の小さい子や、施設から通っている子でした。他に友達がいないのではないかとちょっと心配したくらいです。ある日の授業参観で、答案がひとりひとりに配られていた時、気弱そうなK君の答案を他の男の子が取り上げました。その時にちょうど近くを通りかかった舞がサッとそれを取り返してサッとK君に手渡して、何事もなかったように涼しい顔をしていました。それを見たK君のお母さんが泣き笑いのような表情で私を見ました。K君は小学館の英語教室で一緒の子でした。舞はよく、何が良いことで何が悪いことかという質問を私にしました。どちらともいえないと思って答えられないような時でも、答えるまで納得しませんでした。悪いことと教えたことは絶対にしませんでした。またある時には、「英語を習っていることを誰にも言っていない」と言って、それはなぜかというと英語を習いたくても習えないとしたら、羨ましいと思って悲しい思いをさせるからだというようなことを20分位ひとりでしゃべり続けたこともありました。それに、私が至らないところをカバーしようという精神も旺盛で、周りから「親がボーッとしてると、子供がしっかりするもんだね」と何度言われたことか。家に友達が来て遊んでいるときでも、おやつを出すタイミングをサッと来て教えてくれたり、ほんとに気配りの子でした。ふたりで出かける時などは、そういうことは頼りないと思っていたらしく電車が何番線かとか、先に先に気を配ったりもしていました。それから今でも「ホントにホント?」と思っていることがあります。私の友人であったピアノの先生が家に来てくれて舞にレッスンをしているときに、発表会で弾くことになっていたけっこう難しい曲を、間違って違うキー(調)で弾き始めたからびっくりして、試しに全部のキーで弾かせてみたら全部弾けたというのです。ピアノを弾かない方にはなんのことかわからないと思いますが、たとえばドから弾き始める曲をレから弾き始めるとすると、黒鍵(鍵盤の黒い部分)を決まった法則に従って使わなければならなくなります。ミから弾き始めるとなると、また違った法則で黒鍵を使うことになり、次々と全部違った法則に変ります。もちろん譜面も良く読めないのにそんな法則は全く知らないで、ただ勘だけで弾いたわけです。法則を知っている音楽大学生でも難しいことです。「教えたんですか?」と聞かれましたがとんでもないことです。私なんかに出来る芸当ではありません。きっと必死に弾いたんでしょう。
舞と過ごした8年間の充実感は何にも変えられない幸福で、それまでずっと音楽の道で成功することを目指してきた私にとって、そんなことはたいしたことではなかったと気づかせてくれました。それで、楽しみとしてポピュラーの弾き語りを始めることにしました。それがだんだん仕事になってきたときに、突然舞は原因不明の病気でいなくなりました。赤ちゃんの時、子守唄を歌うと「もっと、もっと」と言って毎晩10曲以上も歌わされました。そしてあきらめた音楽を再開した時にいなくなったのです。こうして書いてみると、今の私が悲しみや苦しみを持つ人々の思いを共有して、元気になってもらうための音楽活動を続けてきたこと、ソングセラピーの道を見出したこと、これらのすべてが舞の中にあったということに気づかされます。仏教で「親に先立つ子は導き手である」という教えがありますが、私にとってはまさにその通りと言えます。葬儀の時に、3年生になったばかりの同級生たちが、霊柩車に向かって全員が大声で泣いていました。先生たちが止める程だったそうです。お坊さんが「子供がこんなに泣く葬儀は初めてです。どんなにか慕われていたことでしょう」とおっしゃっていました。
「宇宙で一番ママが好き」と言ってくれた最高に大事な存在です。
6月28日、朗読でお馴染みの冨田祐一さんが構成・演出・出演される、日本俳優連合「ドラマの方言を考える会」の公演「昔むかしあったとさ」に行ってきました。その日はちょうど南相馬の仮設の自治会長さんで「仮設にて」の著者、藤島昌治さんが所用で上京されている日だったので、私と本田さんと一緒に観る約束をしていました。東中野のポレポレ座は、昔の映画なども上映されたりする古い佇まいのこじんまりとした趣のあるホールです。ロビーには冨田さんや他の俳優さんたちが出迎えに立っておられたので、私たち3人は南相馬以来の再会となりました。
出演者は11人で、90分休憩なしで次々と朗読が続けられました。いろんなお話をそれぞれの俳優さんたちの出身地の方言で語るという趣向で、いわゆる昔話だけではなく多岐にわたる内容でしたので、全然飽きることなく90分が過ぎました。
冨田さんは、これまでも戦争が二度とあってはいけないという思いをライフワークとして数々の公演をされてきました。今回も、今の日本が危ない方向に行くのではないかという危機感を随所に取り入れた内容になっていました。冒頭に福島・合津弁で語る「憲法第9条、第99条」というのがあって、憲法も方言で語られるとわかりやすくなるものだと思いました。アイヌ言葉や沖縄弁など、様々な社会問題を織り込みながらもユーモアがあって、貴重な公演だったと思います。
最近テレビで70年代、80年代など、懐メロの番組を放映していますが、それを見ていた時思いがけない歌に感動した自分に驚きました。当時は何とも思っていなかった歌が、人生経験を重ねた今聴いてみると、随分いい歌だったんだなと思う歌がたくさんあります。そのなかでも意外だったのは千昌夫さんの「星影のワルツ」です。あまり演歌には興味がなかったのですが、デビュー当時の、素朴で誠実そうな若者の千昌夫さんが、
別れることは つらいけど 仕方がないんだ 君のため
別れに星影の ワルツをうたおう
冷たい心じゃ ないんだよ 冷たい心じゃ ないんだよ
今でも好きだ 死ぬほどに
と切々と歌っているのを見ていたら、どんな事情があるのか知らないけど、女性にこのように対応できる若い男性が今どきどれくらいるだろうかと思うとジーンとなりました。
そうしたら、「昔むかしあったとさ」のプログラムに「星影のワルツ」とあったので、歌われるのかなと思ったら、出征する若者の設定で3番までの朗読でした。そういう設定もぴったりはまりますよね。
ところで、来年4月に南相馬市の避難区域が一部解除されるために、仮設を出なければならなくなり、行くところがなくて困っているお年寄りがたくさんおられるということは以前にも書きました。そこで、藤島さんが世話人となって、シェアハウスの建設を希望する署名運動を始められたとのことでした。
そういう所が出来たらどんなにいいかと思います。出来るだけ多くの方々に署名をお願いしようと思っています。
数ヶ月前に宮司さんが夢に出てきました。どうしてかと思いましたが、セラピストの勉強をしていたことと関係があるかもしれないと今は思っています。前回の日記に賀陽濟(かやわたる)さんを「宮司さん」という名称で書いたところ、それを読んだある人からお名前で書いた方がいいのではないかと云われましたが、私たちはみんな親しみを込めて愛称のように「宮司さん」と呼んでいたので、そのままで書きたいと思います。
私が初めて田無神社を訪れた時、神社はまだ今のようには発展していない素朴な神社でした。私を紹介してくれたクラシックギターのOさんがお正月に舞殿(神社の境内にある舞楽を行うための建物)でギターを演奏させていただいているというので見に行きました。その頃は宮司さんが決めたことを自由に実施出来たので、翌年には私もお正月の初詣での人たちに聴いていただくような形で舞殿で演奏することになり、毎年演奏しました。
何年か経った頃に何百年もの非公開で保存されてきた、有名な彫刻家である嶋村俊表(しまむらしゅんぴょう)の彫刻で出来ている本殿を一般公開するという決心を宮司さんが固められました。「このままずっと非公開でいるのはよくないよね」とおっしゃっていました。そしてそれが東京都の重要文化財となりました。私はお祝いの意味で「嶋村俊表に捧ぐ」という歌を作って奉納しました。(コンサートで歌っているところがユーチューブにあります)
それからは神社の様相が変わっていきました。神社を取り巻く人々も多くなり、いろんな勢力に分かれていったようです。宮司さんはそのなかで大変な思いをされておられるようでした。「枝璃さんをそういうことには巻き込みたくない」とおっしゃっていたので、私は詳しいことは知りません。そして宮司さんの応援のもと、10回くらい続けてきた「コール田無」のコンサートにも、反対勢力があることを年々感じるようになりました。宮司さんは「枝璃さんがコンサートを続けてくれることが私の励みになっているんですよ」としみじみ言われたことを今ならもっと理解出来たと思いますが、その時は聞き流してしまいました。黒い羽織にうすいブルーの袴姿の宮司さんはすごいオーラを放ち、博学のうえに深い精神性が感じられたので、圧倒されてあまり対等な会話が出来ませんでした。私の精神的成長が遅かったことが悔やまれます。
最後のコンサートになった10回目の準備をしていた時期に、突然天からの啓示のように「もう辞める時がきた」という感覚が私の心に浮かびました。ちょっと大げさな表現ですが、曲が突然浮かんだりするのと似たようなものです。すぐに宮司さんに電話をしました。いつもの優しい宮司さんの声でした。「今回限りでコンサートを辞めることにします」と言うと一瞬の沈黙を感じました。でもすぐに「そういうことですか」と穏やかに対応してくださいました。その後、神社はどんどん難しい状況になっていったので、やはりあの時が、まさに辞める時だったのだと思います。私たちはあまり神社に行かなくなりました。宮司さんが胃がんになったことも後で聞きました。59歳の若さで亡くなられたことを思うと、どれ程のご心労だったのかと思わずにはいられません。
楽しかった思い出はたくさんあります。なにかというと参集殿(参拝者のための待合所・休憩所)で飲み会になり、宮司さんはジャズが好きらしく、酔っぱらうとでたらめに歌いだします。私もシンガーソングライターとして即興で歌えないというわけにはいかないので、でたらめに高い音域で歌い、セッションのようなことになって、神官の人たちも音楽的素養が高い人が多かったので、太鼓をたたいたりみんなで大騒ぎをしました。それからある時、私の弾き語りと牧野先生のバイオリンで「川の流れのように」を始めたときに停電になり真っ暗になりました。2人とも演奏をやめないで続けていましたが、間もなく電気がつきました。そうしたら宮司さんがすぐにまた電気を消させて最後まで暗闇のなかでの演奏となりました。大変誉めていただいたことは言うまでもありません。
時にはたくさんの人が集まっているときなど、私がいわれのない中傷を受ける場面も少なからずありましたが、私が実は天然ボケで、世間を生き抜くためのなんの智恵も策略も持ちあわせていないということを一番見抜いていたのも宮司さんで、そんな場面では「私は精神科医だから何が本当かよくわかっています」と言って下さったので、私は何も弁明しようとも思いませんでした。
宮司さん、ほんとにたくさんたくさん、ありがとうございました。向こうの世界ではどうぞ安らかにお休みください。
5月22日、ついにメンタル心理カウンセラー資格合格認定書が届きました。賞状と認定書カードが立派なケースに収められていて、合格するだろうとは思っていましたが、やはり手にしてみるとすごく嬉しいものでした。これでパーソナルソングセラピストとして仕事をするためのスタートラインに立つことが出来たという思いです。
周りの人たちが、ソングセラピストってどんなことをするのかみんな分からないと思うからまずは理解してもらうことが先決だと言っています。それはその筈で、私がやろうとしていることは誰もやったことがないスタイルで、第1号であって最初で最後の人になるかもしれないのです。
実をいえば私もカウンセラーとセラピストの役割や違いというものを、勉強するまではあまりよくわかっていませんでした。
簡単に説明させていただきますと、「カウンセラー」はクライアント(来談者)の悩みを聞いて、クライアント自身が立ち直っていくように共感を持ってサポートして行くというもので、カウンセラー自身の考えを言ったり、アドバイスはしないという受動的な役割を果たすものです。一方「セラピー」とは治療、療養の意味で、実際になんらかの治療行為をする人のことを、「セラピスト」と言います。本来は精神科医や、マッサージ師、鍼灸師などがセラピストと言われていました。精神科医が行うセラピーは「サイコセラピー」と呼ばれています。ところが近年、アートセラピー、ミュージックセラピー、アロマセラピーなど、いろんな分野のセラピーが行われるようになり、医師でない人が行う「癒し系セラピー」という新しい分野の登場により、セラピストという言葉の意味が広がりました。たとえば、ミュージックセラピーは、一方的に音楽を聴かせるだけのセラピーもあれば、「音楽を使ったカウンセリング」という意味合いもあります。
私の場合これまではセラピー的な思いを持っていてもコンサート形式だったので、受けてのお話を聞くことのない一方的なものでした。それでも内容はセラピーコンサートとして組み立ててきたので、セラピーコンサートということができます。
これからは、パーソナルソングセラピスト(個人的なソングセラピスト)として、カウンセリングとソングセラピーを組み合わせた仕事を立ち上げるつもりです。具体的には60分〜70分位のなかで、来談者のお話を聞いて、その内容に合うと思った歌を2〜3曲歌うという形をとります。そこで、今までだれもやったことがないというポイントは、その歌が私の経験の中から紡ぎだしてきたオリジナル曲ということです。それが、治療の薬の代わりになることを一番の目的としてとらえています。
このことを、バイオリン演歌でおなじみの武蔵野中央病院(精神科)の院長である牧野英一郎さんにお話しましたところ、「それは枝璃さんにしか出来ないことだね」と言っていただき、自信につながりました。精神病の方は受けてはいけないことになっているので、その場合は速やかに専門家に紹介することになっています。その受け皿も身近にあるなんてこれまで思ってもみませんでした。
牧野先生とは、田無神社の宮司さんである賀陽濟(かやわたる)さんの関係で出会いました。宮司さんは2年前4月に胃がんのため旅立たれました。宮司さんとの出会いは20年位前で、ギターの友人に紹介していただきました。その時に私の弾き語り「あじさい」を聴いていただく流れとなり大変気に入っていただいたことが、ずっと応援していただくことになったのです。そして神社の土地に建っているコンサート会場「コール田無」で10年位コンサートをさせていただきました。
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| 「コール田無」コンサートの打ち上げが終わったところ、 中央で両手を上げているのが宮司の賀陽濟さん(神社の境内で。拡大できます) |
宮司さんはもともと精神科医で、「帰ってきたヨッパライ」で大ヒットしたザ・フォーク・クルセダースの北山修さんの後輩にあたり、精神科医の北山さんとご一緒にお仕事をされた間柄でした。「あんな酔っぱらいの作る歌より枝璃さんの作る歌の方がずっといいよ」と言って笑っていました。そしていつも「日本のジョーン・バエズ」と言っていましたが、晩年には「ジョーン・バエズじゃなく、枝璃貴子になった」とも言って下さいました。そして「枝璃さんの声は神様に直接届いていく、言霊(ことだま)だ」とか、「神様の思いを伝えるシャーマンだ」とかおっしゃっていました。私はイマイチよくわからなくて、いつもポカンとしていました。ある時、カナダから先住民であるシャーマン達が神社を訪れて歓迎の宴が催されました。私がアカペラで「江戸の子守唄」を歌ったところ、シャーマンの長老が、涙ながらに「ビューティフルヴォイス」と言いながら私の手を握ってくださいました。なんだか不思議な感じでした。後で宮司さんにそう言うと、「そうだろう!」と言っていました。
その宮司さんはなんと、アメリカで「サイコセラピー」を勉強して来られた日本では珍しい存在だったのです。宮司さんが書かれたサイコセラピーの本を最初にいただいていたことを思い出しました。アメリカでは盛んですが、当時はまだ日本ではあまり知られていませんでした。当時、私もそんなことには興味がなかったのですっかり忘れていたのです。今、WEBで宮司さんのことを検索したら、セラピストとも書いてありました。今もお元気でいられたらそんなお話もいっぱい聞くことが出来たのにと思います。宮司さんの価値を半分もわかっていなかったと今さらながらに残念でたまりません。
そして、牧野先生と今も気仙沼や南相馬に一緒に行っていただいたりしていること、やはり不思議なご縁を感じないではいられません。なんだかいろいろ思い出してきました。長くなるので次回に持ち越すことにします。
南相馬コンサートツアー(参加27名)を終えて18日に帰ってきました。16日朝に自宅前から貸し切りバスに荷物を積み込んで、吉祥寺出発組5人でスタート、上野で他の皆さんが乗り込むという形で出発しました。自宅から南相馬のホテルまで直通なので随分楽に行くことが出来ました。南相馬に入ると去年はなかった、放射線量掲示板が道路際にあって、最初は0.2マイクロシーベルト位から始まって、鹿島に近づくにつれて、5.4マイクロシーベルトのところもありました。
| 会場の「万葉ふれあいセンター」 |
| 吉祥寺から上野経由常磐道を貸切バスで会場へ |
あとで藤島さん(鹿島区仮設住宅自治会長さん)に伺った話では、測定機がコンクリートで固められた部分に建てられているので、線量が低く表示されるのだそうです。実際には5.4位に表示されていれば、その周辺は20マイクロシーベルト位はあると聞いて驚きました。「そのあたりで喉が渇いたり眠くなったりしませんでしたか?」と言われました。そう言えば帰りのバスは、行きとは逆で最初の方でいきなり5.4位のところを通ったわけです。私はそのあたりで急に眠くなりました。それまですごくおしゃべりしていた人たちも急に寝ていたそうです。バスの中は閉め切っているので大丈夫だろうと思っていましたが、空調の風を感じましたから、やはり影響があったのかなと思いました。去年行った私たち3人は被災の状況を見ていますが。他の皆さんは初めてバスから見る景色や、藤島さんが案内して下さった被災現場を見て、テレビなどでの報道では計り知れないという思いを強くされていました。
| 第1部「セラピーライブ」でお話し |
| 仮設住宅から足を運んでいただいたみなさんの前に歌う |
コンサートの方は、行く前に覚悟していたように足を運んでくださったお客様は人数的には当初の予定より少なかったものの、皆さんが大変感動して下さいました。後でビデオを見てみると、ステージから見ていた以上にほとんどの方たちが涙しておられたので、やはりすごく辛い状況にあるのだと思いました。今回、たくさんある仮設にポスターやチラシを福祉センターで配ってくださると聞いていましたが、ほとんどそのような協力がなかったようです。それで、来て下さったのは藤島さんのエリアの方達なので、昨年集会場に来て下さった方たちが何人もおられました。コンサートの帰りに仮設に立ちよって、実際に4畳半一間の住まいを見せていただきました。箪笥を置くスペースもなく、衣類も押し入れに入れている状態でした。「せめて食事する部屋と寝る部屋が別だといいんだけど」とおっしゃっていました。4年間は大変ですよね。
| 「仮設にて」朗読の富田祐一さんと |
| Eires' 弾き語りアンサンブルの皆さんと |
コンサートは、第1部が私のセラピーライブということにして、ソングセラピーに徹しました。第2部は朗読の冨田祐一さんと今回のメインテーマである「仮設にて」を披露しました。それからバイオリン演歌の牧野英一郎さんが特別参加のコーナーもありました。そして最後に仲間たちの演奏ということで、門下生5人と他6人の仲間たちで、「知床旅情」と「時代を越えて」を演奏、会場の皆さんにも「時代を越えて」を一緒に歌っていただきました。コンサートの中から、何曲かユーチューブにアップしました(⇒ こちらからご覧ください)。
| 一緒に行ってくださった皆さんと記念撮影 |
一緒に行った皆さんは大成功と言ってくださっています。参加してくださった皆さんありがとうございました。
⇒ 当日のプログラムはこちらです
南相馬のコンサート直前となりました。16日に出発して、17日午後にコンサート、翌18日に現地を視察して帰ってきます。今回はバスを借り切っての旅行なので、電車やバスを乗り継いで行くよりは随分楽だろうと思います。参加者は26名程で、何名かは1泊で帰られる方もいらっしゃいます。今回も気仙沼のときのように、支援の会の事務局を担って下さっている近藤さんの中学の同級生の方達も九州から参加です。バスの手配やホテルの手配、旅行スケジュール、参加費用の設定など、近藤さんが受け持ってくださって大変なご苦労をおかけしています。
また、先月は状況を把握するために本田が現地に行ってきました。このコンサートの準備をしてくださっている自治会長の藤島さんからいろんなお話を伺ってきましたが、仮設の方達はますます厳しい状況にさらされていることがわかりました。来年5月に立ち入り禁止区域が一部解除されることになったものの、家は全壊に近い状態で、建て替えなければ帰れませんが、仕事もない状態で資金の目途がたたないし、仮設に残るには条件が厳しくなるということで、途方にくれるような状況になっているそうです。どうして国がもっと助けてくれないのか不思議でたまりません。
今回のコンサート開催の経過については、2014年11月14日のWEB日記「ココパームのライブコンサートを終えて」に書きましたように、広い会場に決まっています。そんなお話を伺いますと、はたして皆さん聴きに来られるんだろうかと心配になって、もうこれはコンサートという感覚ではなく、戦地に慰問に行くんだという気持ちに切り替えた方がいいと思い、参加者全員がそのような心構えになっていただかないといけないと思っていました。
でも先日藤島さんのお電話では、思った以上に多くの方が聴きに来て下さるような感じでした。私たちは参加者全員がスタッフの精神で、会場に足を運んでくださる皆さんを、「ようこそおいで下さいました」の心を込めてお迎えしたいと思っています。
3月22日のWEB日記に「ただいま勉強中」ということで、メンタル心理カウンセラーの勉強をしていることを書きました。そうしたら、自分ではそんなふうには思っていなかったのですが、いろんな人達からこの年齢になっても勉強をするということが素晴らしいと言われました。ああ、そう思われるのが一般的なことなんだなと初めて気が付きました。
その勉強も、先日資格検定試験を受けてひとまず終了となりました。合格通知と認定書が来るには1ヶ月もかかるということで、目標にしていた南相馬のコンサートまでには間に合いそうもありません。それにまだ合格が確定しているわけでもありません。ただ、資格検定試験の合格は70点以上なので、4回受けた添削問題のテストは、4回目に100点を取れたし、最低でも96点だったので、よもや70点以下ということはないだろうと思いますが、どうでしょうか?日本の大学は入る時が大変で、入ってしまえば楽と言われていますが、この場合は資格を取るのは楽で、カウンセラーになってからは常に向上心を持って勉強しないといけないという考え方のようなので、その方が断然いいのではないかと思います。
まあまあ自分でもよくやったと思っていたら、先日舩水京子さん(写真)からお電話をいただき吃驚仰天(びっくりぎょうてん)。上には上があるというというお話です。
舩水さんは私のWEB日記にも度々登場していますが、来年1月に90歳になられる琵琶奏者です。なんと説経節(せっきょうぶし)を習っていたら名取(なとり)になったというのです。それは素晴らしいことだと思い、WEB日記に書きたいから詳しい内容を手紙に書いてくださいとお願いしました。そしていただいたお手紙を読んでみたところ、私が書くよりそのお手紙を「サポーター便り」に載せた方が面白いと思い、そちらに載せてみました。プラスチックの撥(ばち)が象牙に変ったというくだりがありますが、舩水さんは霊感があるというのを通り越して、不思議なことがたくさん起きる御方なのです。
とにかく80歳くらいから新しいものに取り組んで、名取になるなんてすごいですよね!
12月の「気のいい仲間たち」のコンサートで是非ご披露していただきたいと思っています。
私の母は67歳で亡くなりました。そのせいか自分が67歳以上になって生きているイメージというものが浮かんできません。どこかに私はもう終末を迎えているという気分があって、ソングセラピストになるのが私の最終的な道であったという思いに至っています。でも、もしかしてすごい長生きなんかして、また新たな最終的な道を見つけたりなんてことになるかもしれません。なんだか人生って、精巧なパズルのようで、完成図は最後の瞬間までわかりませんね。
そのように考えてみると、これまで生きてきたことすべてがパズルの欠片ということになります。その記憶の欠片たちは今の私を形成してきたということにあらためて気付かされます。多分最終的にソングセラピストになるであろう私の記憶の欠片たちを拾い集めてみることにしました。
小学校に入った当時は集団生活に馴染めず、自分から話すということが出来ませんでした。ただ、家が当時酒田には2件しかない誰でも知っている楽器店の子供であることや、母が洋服のセンスが良くいつも可愛い服を着ているなどの要素からか、いつも私の机の周りに女の子たちが集まってきていたことを覚えています。それでも引っ込み思案で、授業中手も上げないような子でした。担任は母と同じ年恰好の竹田先生で、そんな私をなんとかしようとされていたのではないかと思われます。
あるとき、何もしゃべらない私を、校内放送の放送劇に出演するように言ったのです。出演者は3人で、アリさんと、カラスと葉っぱです。アリさんは優等生のムラタくん、カラスは学年で一番身体が大きく、ちょっと不良っぽいワタルちゃん、そして私が葉っぱです。内容は、カラスがアリさんを急流の川に突き落として、葉っぱがアリさんを助けるという物語です。私のセリフが「アリさん!アリさん!早く私につかまって!」という、凄い迫真の演技が求められるセリフです。何十回もダメだしをされて、ようやく先生の満足のいく出来となりました。
それから3年生になると学級委員というものがクラスに設けられることになり、「初めてのことだから先生が決めます」とおっしゃって、またまた信じられないことに、なんにもしゃべらない私と、ムラタくんが学級委員に決められたのです。学級会の議長をしなければならないので、言葉を発しない訳にはいかなくなり、そのころからようやく話しができるようになりました。
そして4年生になるとクラス替えになり、竹田先生とはお別れになりました。ところが、ムラタくん、ワタルちゃんと私の3人は同じクラスになり、6年間いっしょに過ごすことになりました。学級委員は選挙になっても相変わらず、ムラタくんと私のコンビで卒業まで続きました。ワタルちゃんはいつも席が近くで、低学年の時と同じようにちょっかいを出され続けました。何処で拾って来たのか、葉っぱがいっぱいついた木の枝で後ろから私の頭を軽くたたいてみたり、いろんなことで、クラスの男の子たちと一緒に私を囃したてたりなんかしていました。ワタルちゃんは今考えてみると家庭環境が複雑な子で、寂しかったんだと思います。でも人気は男の子ではナンバーワンだったように思います。
ここまで書くと、私は幸せそうな子に思われるかもしれませんが、家庭の方は波瀾に満ちていて、低学年の時に楽器店と2階のピアノ工場と奥の自宅が全部乗っ取りに遭いました。あまり間をおかないで、違う場所に楽器店を再開したので、事業に失敗したところの子というイメージはなかったようです。そのときから、家とお店が離れたので、私は誰もいない家で過ごすようになりました。そのうえ、弟が医療ミスで命にかかわる病気になり、両親はお店と病院に1年近くかかりっきりになり、私は学校がある時は親戚のお姉さんが泊まりに来て、学校が春休みや夏休みになると田舎の親戚に預けられていました。でも、おとなしくていい子というイメージで親戚の受けが良く、可愛がられていましたから寂しいとは思いませんでした。それよりも、それにつけては、私が子供を医療ミスで亡くしたことと、弟のこととは重ねないではいられません。
ちょうどその頃ピアノを習っていましたが、先生が声楽専門のとてもおしゃれで美しい先生でした。自宅で教えておられたので、私もそうなりたいと憧れていました。今家で弾きがたりを教えていますからその夢は叶っていますね。ピアノの発表会の時、普段は歌を教えていませんが、2,3人の独唱もありました。私もその1人でしたがある時、合唱をすることになりました。「かぐや姫」の合唱曲で、かぐや姫とおじいさん、おばあさん役の3人は前に立ってソロパートを歌うという形式のものでした。私はかぐや姫の役で、「おなごりおーしや、おばばさまー〜〜〜」の部分は今でも歌えます。両親は弟のことで大変な時だったので、もちろん見に来てもいないし、そんな記憶もないそうです。
子供が亡くなった時、それまで普通に元気だった子があっという間にいなくなってしまったので、母が「かぐや姫のようだね」と言いました。それからまもなく、紀子様が秋篠宮様とのご婚礼が決まったときに、世間が「かぐや姫のようだ」と報じていました。
話を小学校に戻しますと、6年間一緒だった3人はそれぞれ、1中、2中、3中とみごとに分かれ、それ以来会っていません。私の初恋は?と問われれば「ワタルちゃん」ですね!内心孤独だった私を6年間かまい続けてくれたのですから。
今でも、恵まれている人よりもいろんな困難にあった人に関心がいくという性格の原点かもしれません。
オマケがあります。昨年酒田で初めて帰郷コンサートをした「酒田文化センター」は私たちが過ごした琢成小学校の跡地に建てられたホールだったのです!
昨年の暮れのWEB日記に、「3月まで音楽以外の勉強に打ち込みます」と書きました。
心づもりとしては1月2日が「書き初め」とか、いろいろ始める日と思っていたので、2日から勉強を始めるつもりでした。ところが例によってスロースターターの私が勉強に取りかかったのは1月10日でした。4冊のテキストを勉強して4回の添削問題を提出して終了という過程を踏み、それから資格試験となるのですが、ちょうどその分だけ遅れて4月までずれ込んでしまう状況になってしまいました。
なんの勉強をしているのかというと、心理カウンセラーの勉強です。カウンセラーになるつもりはありませんが、このところ力を入れているソングセラピーをするために役に立つと考えたからです。
よくコンサート活動をしていると、「ライトを浴びて素敵な衣装を着られるのが羨ましい」とか、「1度喝采を浴びるとやめられなくなるんでしょう?」とか言われることがあります。とんでもないです。そんなことでコンサートをしていたのなら、とっくに辞めています。ライトはまぶしくて目が眩むし、衣装は今度何にするか考えるのも苦痛だし。なにより、あんまり目立ちたくない性格なんです。それでは何でこんなに続けてきたかといえば、ギターを弾く環境に育ち歌は好きだったから弾き語りを始めて、成り行きでコンサートをする状況になったのですが、いざコンサート活動を始めてみれば、自分で満足のいく出来には程遠く、いつも悔しい思いばかり。今度こそはもっと良くできるようになろうという思いの連続で、気が付いたら今に至っていたのです。今はお客様に感動していただくことが出来るようになってきているので、それが一番の喜びとなっています。そして、被災地に行くようになってからは、特にセラピー的なコンサートをするために真剣に考え取り組んだので、ソングセラピーこそ私の最終的な道であったという思いに至っています。
心理学のテキストを勉強していて、驚いたことがあります。最初に心を理論的に考えたのは古代ギリシャのアリストテレスだそうですが、それ以来たくさんの心理学者たちが色々な説を唱え、フロイトやユングにつながってきたのだそうです。そして、今の心理カウンセリングの主流になっている「人間性心理学」というのが、私がセラピー的コンサートをするために考えてきたことと全く同じだったのです。私は何もそんな勉強をしたこともなく、只々自分の経験から導き出してきたやり方なのですが、私の考えは間違っていなかったということが分かったのが何よりの収穫と言えます。
それなら、添削問題は全部100点になるかと思ったら、1回目、2回目はうっかり漢字の間違いやら、問題の出し方がひっかけ問題のような感じで、まんまと引っ掛かったりして、100点取れなかったのがすごく悔しいです。今3回目を提出中ですが、今度こそは100点だといいなと思っています。採点欄にはかなり長めのコメントが書いてあって、「とても良く出来ています」とか「!」が付いてきたりすると嬉しいものです。
ずっとこんなことをしていたせいか、この頃やたら小学校時代の思い出がたくさん浮かんできて、それが今になって考えてみると面白いことがいっぱいあったんだなあ、と感慨にふけっています。次回書いてみようかな?でもいっぱいありすぎて、短くまとめるのはちょっと難しそうです。
昨日の朝、テレビの「このままでは終わらないぞ、と思った」という言葉で目が覚めました。私が23歳のときに思ったことでした。それ以来何かある度にその思いを胸に、今まで生きて来たのだった、ということに気が付きました。その言葉を発していたのは女川で被災した、かりんとう工場の社長さんでした。建物すべてが流されて、何もなくなった土地の中から、かりんとうを作るための麦の機械が見つかったことから、鳥取の大山の麓にまた工場を建てて、以前と同じく身障者の社員たちでかりんとうを作り始めたということを報じていました。故郷を捨てたという人もいたそうです。そんな筈ないでしょうと、女川の工場の跡地を眺めていました。社員二人を亡くしたこともあり、あまりにも辛くて今まで見ることが出来なかったそうです。それから別の番組で、福島の立ち入り禁止区域を解除された自宅に帰って、いろんな困難に立ち向かい前向きに農業に取り組んでいこうとしているご夫婦のことも紹介されていました。そして、私たちが実際お会いしている気仙沼の民宿「アインスくりこ」のご夫妻、「ひまわりさん」ご夫妻や大島の皆さんの、前に向かって進んでおられる姿も見てきました。きっと、「このままでは終わらないぞ」という思いを持っているからに違いありません。
私が23歳の時家族が崩壊しました。東京でギターの勉強をしていた頃に、突然母から酒田に来るように言われ家族の崩壊を知りました。それまでも、父の楽器店が二度も乗っ取りに遭い波乱万丈な家でしたが、それまでは親に守られる立場にあったのでそんなに自分自身は傷ついてはいなかったと思います。その両親が崩壊したとあっては途方にくれるばかりでした。そのさなかにバスの中でふと頭に浮かんできた歌がありました。南沙織さんの歌で、正確な歌詞がはっきり思い出せませんが「いつの日か鮮やかに現れて見せるわ」というフレーズでした。今の沈んでいる状況はあるべき位置ではないので、浮かび上がるという思いだったと思います。酒田は、幼いころ楽器店のお嬢ちゃんだった幸せな思い出と、不幸を味わった数々の思い出が入り混じって、封印したい故郷でしたが、昨年コンサートで訪れて「故郷はありがたきかな」という思いに変ったということを以前WEB日記に書きました。そんな私でさえそうなのに、被災されたために故郷で暮らすことが出来ない方達はどんなに悲しいだろうと思わずにはいられません。
3月11日が近づいて、それに加え戦後70年で東京大空襲の3月10日が近づいて、新聞テレビが色々報じています。それにつけて思うことは、被害に遭われた方々が自分とは違う世界の人々と勘違いしている人が多すぎるのではないかということです。今は弱者としての立場に扱われている方達も、本来は弱者ではありません。今強者の立場にある人がいつまでも強者であるとは限りません。私が8歳の娘を亡くした時、同級生の親御さんたちや関係者の方達の同情を一身に浴びました。まぎれもない弱者の立場でした。また、離婚をして一文無しになった時もそうです。今の私を見て弱者と見る人はあまりいないと思います。むしろ、被災地支援コンサートなんかして、励ましをあたえている強者という目で見られていることもあるかもしれません。でも私はいつも私であって、強者とも弱者とも思っていません。とにかくよかったと思っていることは、たくさん辛い経験をしたから、辛い人の心が自分のことのように感じられるようになったということです。いろいろなことで素晴らしい活動をされておられる方たちは必ずと言っていいほど、大きな試練を乗り越えています。それが本当の人間の価値ではないでしょうか。
強者である立場にある権力者の方々が、復興が進んでいると胸を張って言っているのを何度かテレビで見聞きします。私が5月の南相馬のコンサートで歌おうと思っている、昔作った「愛伝えたい」の歌詞の一部分を紹介しましょう。
「見せかけだけの愛はいらない 取り繕う言葉も 本当の愛を示そう 本当の言葉で語ろう、愛を信じたいから」
2月6日頃から今日まで、近年には珍しく体調が絶不調に陥いりました。数日ほどお腹の具合が悪く、なんだろうと考えても思い当たることがないのに悪くなる一方なので、掛かりつけのクリニックに行ってみました。それは多分ウイルス性の胃腸炎だろうということでした。多分というのはお腹だけでなく風邪の症状も出ていれば、今すごく流行っているウイルス性胃腸炎だそうです。順序が逆だけれど、あとから風邪の症状が出てくるかもしれないという想定のお薬をいただいて、お腹は良くなりました。その後、半年前に痛めた膝や、20代にかかった左手の腱鞘炎やら身体のあちこちが痛くなって、夜中も痛くて眠れなくなりました。特に、膝を痛めた右足は全体に腫れて曲げられない状態になり、トイレに行くだけで精一杯という日もありました。そんな時はほんとに何もする気にはなりません。先日コンサートに伺ったリハビリ病院の皆さんやMちゃんの大変さを思いました。もしかして何万人に1人とかの難病にかかったのではないかと思いましたが、昨日から膝はまだ痛いものの、ほぼ普通の状態に戻ったので、どうやら難病ではないようです。
先日テレビでメンタルクリニックなどで有名な海原順子さんが、何年か前に帯状疱疹をきっかけに顔面神経痛やいろんな症状が出てきて、良くなるのに2年位かかったというお話をされていました。それまでの頑張りで、自分では気がつかないストレスがたまっていたことが原因だったそうです。それからは、食事に気を配り、身体を緩めるストレッチをかかさず、好きなジャズを歌い始めて今はお元気に活動されていました。ストレスというのは考えられないような症状を引き起こすものですね。
私もしばらくコンサートがないという気の緩みかもあって、調子を崩したのかもしれません。これからはこんなことにならないように対策を考えようと思います。
いつものことながら、予定は遅れ遅れになってきました。5月17日の南相馬のコンサートの練習は3月、4月に充分な練習をするつもりでいましたが、いまだコンサートの内容もまだ白紙状態です。そろそろエンジンをかけなければいけません。
前回の日記に書きましたように、2月1日リハビリテーション病院でミニコンサートをしました。
40分ということなので6曲にして、最後に「時代を越えて」を覚えていただいて一緒に歌うようにしようと思いました。もちろんご無理のないように、歌う気分になれない方は心の中で歌っていただくようにしました。プログラムに書いた歌詞を見ていただくだけでもいいと思ったからです。
私の心づもりはソングセラピーですが、だれもそういうコンサートは聴いたこともありませんから、普通のコンサートと思って集まってこられました。もっとも、40分ではソングセラピーとして大事な要素をしめる「お話」の部分に時間を取れないので、MC(註1)はできるだけ短くしました。
1曲目は懐かしい童謡でリラックスしていただこうと思い、「夕やけこやけ&赤とんぼ」です。皆さん明るい表情で一緒にくちずさんでくださいました。2曲目は、酒田のボーカルスタジオで私の先輩にあたる岸洋子さんの「夜明けの歌」です。岸さんがソプラノのオペラ歌手として期待されていた時に膠原病になって声が変ってしまったこと、入院中にラジオで聴いたシャンソンに深く感動してシャンソン歌手になったこと、膠原病と闘いながら歌手として活動したことなどを話した時、皆さんが急に真剣な表情になり、積極的に聞き入るような雰囲気に変わりました。私も心を込めて歌いました。3曲目はオリジナルの「天使の翼」。これは従妹のMちゃんにCD3枚あげていたので、その中から歌ってもらいたい曲があるか聞いたら「天使の翼」と「心の花」と「緑の風に」の3曲をあげてくれたからです。私のオリジナル曲のなかでは決して人気のある曲ではありませんが、Mちゃんの今の心境に合っていたのだと思います。「天使の翼」は「泣きたい気持ちはいつだって、氷の真珠で飾ってる」という歌詞がいいと言っていました。ちょっとしんみりする歌なので、4曲目は気分を変えてカンツォーネの「マンマ」を歌いました。5曲目が「心の花」、Mちゃんがこの曲を選んでくれたことが嬉しく思いました。これは私自身が絶望のなかから立ち直っていった心境を表現したものだったからです。「泥水に咲いた蓮のように、涙に咲いた花です」とか「山々を渡る風のように、強さに開く花です」のような歌詞です。そして最後に「時代を越えて」を聴いていただいて、そのあと簡単に歌唱指導をして、皆さんに一緒に歌っていただきました。実際に歌ってくださった方、声は出さなくても歌詞を見て心のなかで歌ってくださった方、ありがとうございました。
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| リハビリ中のみなさんを前に心を込めて歌いました |
終わってから、コンサートの間中ハンカチで顔を覆っておられたご婦人が話しかけてこられて、「何ヶ月か前に主人が倒れて一度も泣くことが出来なかったのが、今日初めて泣くことができました」とお礼を言ってくださいました。隣に座っていらした方も一緒になってすごく喜んでくださっていました。私も経験がありますが、あまりにもショックなことが起きると涙も出ません。心が過剰に張り詰めているのでしょうね。たくさん涙を流すことはカタルシス(註2)効果があると言われていますから、良かったと思いました。
従妹のMちゃんからも、みなさんが喜んでくださったというメールが来ました。まずは責任を果たすことができて一安心というところです。
【註1】MC:司会、司会者、番組進行役のこと。転じて、コンサートなどで、演奏の合間に演奏者が話をすること、またはその時間
【註2】カタルシス:
・心の中に溜まっていた澱(おり)のような感情が解放され、気持ちが浄化されること
・ 音楽や演劇などで、悲しみや苦悩に共感することで、心の奥底の感情が揺さぶられたり涙を流したりし、 その結果開放感が得られ、癒されること
先日従妹が入院している埼玉県のリハビリテーション病院にお見舞いに行きました。10数年前に亡くなった従妹の夫の妹にあたるので、義理の従妹になるのでしょうか。私よりひとつ年上で、お互いいい年齢(とし)なのに呼び方は変わらず「Mちゃん」「たかこちゃん」と呼び合っています。住んでいるところが遠いのであまり会う機会はなかったのですが、東金市に住んでいる亡くなった従妹の娘が、昨年の夏から月1回ギターのレッスンに来るようになり、脳梗塞になったことを聞きました。そして「たかこちゃんのギターが聴きたいと言ってた」と聞いて、12月29日にCDを聴くウオークマンとCD3枚を持ってお見舞いに行きました。Mちゃんも両親と兄も全部亡くしているので、同年代の私が行ったことで、辛い思いを話すことができてよかったみたいでした。
今の日本では、病気のリハビリは6カ月、怪我のリハビリは3カ月と決まっているそうで、まだ充分動けなくても退院しなければならないのだそうです。Mちゃんは2月3日に退院しなければならないのに、その時はまだ車椅子から立ち上がるのもままならない状態で、家に帰ってからの不安で生きる望みをなくしていました。とてもおしゃれで活動的な人だっただけに、「なんでこんなことになってしまったんだろう」と何度も言っていました。私はなんとか励まさなければと思い、そのとき思いついたのは12月の「気のいい仲間たち」で私の伴奏で歌うことにしようということでした。歌ったのを聴いたこともありませんでしたが、言語のリハビリの先生が良かったということで、そんなに言葉の麻痺を感じさせないところまで来ていたし、声もはっきりしていました。本人は会場まで行けるだろうかという心配をしていました。
それで先日、歌う練習ができるように童謡を弾き語りでCDに録音して持っていきました。3週間くらいしか 経っていないのに、足に装具をつけて4つの車付きの杖で歩けるところまでになっていました。リハビリをずっと担当してくださったS先生はとても若いイケメンの方でした。Mちゃんが絶望して「リハビリなんかしない」と1日ストライキを起こして寝込んだ時もすごく親身になって説得して下さったそうです。S先生が私に「リハビリを見ていきますか?」とおっしゃったので、Mちゃんが心を入れ替えて頑張っているところを見てきました。S先生が、Mちゃんの家を見に行って、手すりを取り付けるところやトイレ、お風呂場の改善を指示して、それをイメージしながら、トイレやお風呂に行く練習をしているのでした。ほんとにきめ細かいリハビリの指導に心打たれる思いでした。
そして退院するにあたって、Mちゃんが先生や看護師さんたちにお礼がしたいという考えから、私に病院でコンサートをしてほしいということになりました。2月1日、40分程のミニコンサートになります。婦長さんたちもCDを聴いてくださったそうで、他の病棟にも声をかけてみるとおっしゃっていました。
患者さんたちはとても辛い思いをしておられる方々なので、これは私のソングセラピストとしての力量が試されるいい機会だと思って、皆さんに少しでもお元気になっていただけるように頑張りたいと思います。
阪神大震災が起きたのがちょうど20年前の1月17日ということで、テレビでいろんな特集番組が組まれていますね。今朝一番驚いたのは、仮設住宅から「借り上げ復興住宅」に移り住んでおられる方たちが、20年が期限なので出て行くように言われていることでした。皆さんそんなことは知らなかったとおっしゃっていて、ご高齢になられている方も多く、今さらどうしたらいいのかと途方に暮れておられる様子に心が痛みました。20年経ってもまだまだ復興に至っていないという様々な情報を見ながら、今私が関わっている南相馬のことを思わずにはいられませんでした。
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| 江見俊太郎さん |
そしてふと、思いがけないことに気が付きました。先日冨田さんとのコラボで、「仮設にて」のDVDを制作したことはWEB日記で紹介しましたが、その原点が阪神大震災にも関わりがあったということです。
10数年前、俳優の江見俊太郎さんが亡くなられたときに、奥様の松風はる美さんが中心になって「語り継ぐ会」を公演しました(それについては2012年12月15日のWEB日記に「続・不思議なめぐり合わせ」として書いていますので、どうぞご覧ください)。その時に初めて冨田さんと出会って、江見さんがライフワークにされていた「蒼い空」の朗読劇で、冨田さんは語り手、私はギターで音楽を担当しました。朗読だけで背景がありませんので、場面が変わるたびにその場所を表現できるようなギターを入れたり、重要な場面ではバックミュージックとしてギターを弾きました。それぞれ配役の役者さんは、バックミュージックをそんなに気にすることなくセリフを入れればよかったと思いますが、場面転換のギターを受けて語りが入るというパターンがたくさんあったので、冨田さんとは一番お互いに息を合わせていたと思います。
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| 「蒼い空」朗読劇
(左から冨田祐一さん 山口結子さん 津野哲郎さん 結城しのぶさん 私)(拡大できます) |
そして何を思いだしたかと言えば、もと特攻隊で生き残った主人公が、特攻隊で戦死した友人の妹さんを探していて、偶然知り合った女子高生といろんな思い出話をするという物語ですが、その舞台が神戸だったのです。だから震災後の仮設住宅のくだりを私のギターと冨田さんの語りの組み合わせがあったのです。なんか今を暗示していたようで驚きました。その台本の一部をご紹介しましょう。
<ギター>(神戸中心街、仮設住宅街のイメージ)
<語り手>
神戸の中心街は以前にも増してきらびやかなビルがそびえ、商店街からは震災の影は消えて いたが、周辺部には3年もたっているのというのに、まだ大きな仮設住宅街があちこちに残っていたし、空き地が点在していた。3人は手分けをして、仮設住宅を廻り、それぞれの自治会事務所で和代の消息を調べて貰った。和代の名前はかおるが訪ねた仮設住宅の名簿の中にあった。だが、和代は前年6月に死亡していた。
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| 松風はる美さんのごあいさつ(拡大できます) |
ほんとに今さらながら、不思議なめぐり合わせです。このようなご縁を作ってくださった、江見俊太郎さん、松風はる美さんご夫妻にはあらためて深い感謝の念が湧いてきました。
明けましておめでとうございます。本年もどうぞよろしくお願いいたします。
今年はどんなお正月を過ごされましたか?私は元日家で過ごしまして、2日は何年振りかで映画を観に行き、3日は氏神様である武蔵野八幡宮に初詣、4日は江ノ島神社に初詣に行きました。江ノ島神社はここ数年間、弁財天に魅せられて毎年行っています。芸術の神様にあやかりたいと、お守りなどを買い込んできました。
ここまで書きますと、いかにも優雅なお正月を過ごしたように思われるかもしれませんが、実はここ何年か家の中のことに手が回らなかったのでなんとかしようと決心したところ、暮れからの大掃除がまだ終わっていないのです。身の回りの整理はようやく片付き、今は衣類の整理の真っ最中です。その後は膨大な量の譜面や音楽資料、終わったコンサートの資料の整理にかからなければなりません。年末年始で片付くなんてあまりにも甘い考えでした。もうこれは長期戦で構えるしかありません。
昨年、中村メイコさんが「徹子の部屋」に出演されていましたが、大家族で住んでいた大豪邸から、ご夫婦だけになったのでマンションに移られたそうです。たくさんの家財道具や衣装など思い切って捨てて、すごく身軽になったというお話をされていました。でもすごく大変で2,3年はかかったそうです。今世間で「物を捨てられない親たち」ということが問題になっていて、遺品整理には何十万円もかかるそうですから、私も出来るだけ物を少なくしたいと日頃から思っています。一番すごいと思ったのは、ご主人で作曲家の神津善行さんが、今は作曲も譜面もすべてコンピューターで出来る時代だから殆ど捨てることが出来たということでした。私も一度譜面ソフトの説明会に行ったことがありますが、いろんなことが自動的に出来上がるので、これまでかかっていた手間が画期的に省けるというものでした。あまりにも大変そうなので、私は未だに手書きで、無から生み出すアナログ作曲をしています。それでも、必要な譜面や資料をすべてスキャンして保存すれば本棚がいらなくなるわけだと気が付きました。「いつ終わるか?」と考えたならば、気が遠くなりそうです。あせらずコツコツ整理することにしましょう。